ワットポーの歴史|寺の始まりと王室・涅槃像・マッサージの関係

ワットポーの歴史|王室・涅槃像・マッサージのつながり

黄金の涅槃像で知られるワットポーは、バンコクが都になる前から続く寺院です。ラーマ1世による大修復、ラーマ3世の拡張、知識を刻んだ石碑。境内に残る建物や仏像をたどりながら、王室と学問、タイ古式マッサージにつながる歴史を紹介します。

目次

ワットポーはいつできた?寺の始まりと名前の由来

ワットポー境内の仏塔とお堂を見渡す夕景

ワットポーの始まりは、バンコクが都になる前のアユタヤ時代までさかのぼります。

その古い寺をラーマ1世が大きく修復し、ラーマ3世が境内を広げました。歴代の王が建物や仏像を加えながら、現在の姿になりました。

時代・年ワットポーに関わる出来事
アユタヤ時代前身となるワットポーターラームが存在。正確な創建年・創建者は分かっていない
1782年ラーマ1世がチャクリー王朝を開き、バンコクに王都を置く
1788年ラーマ1世による大規模な修復が始まる
1801年修復を祝う式典が行われ、新しい寺名が与えられる
ラーマ3世の時代
在位1824〜1851年
境内を拡張。涅槃像の造営、建物の改修、知識を石に刻む事業を進める
ラーマ4世の時代
在位1851〜1868年
寺名の一部を改め、4基目の大仏塔を造営する
20世紀寺に受け継がれた伝統医学が、学校で教える形へ広がる
2011年石碑群1,431点がユネスコ「世界の記憶」に登録される

ラーマの番号と家族関係
「ラーマ○世」は、チャクリー王朝の歴代国王を表す呼び方です。番号は王位を継いだ順番を表します。1世の子が2世、2世の子に3世と4世がいます。3世と4世は、母親の異なる兄弟です。

バンコクが都になる前からあったアユタヤ時代の寺

アユタヤは、バンコクに都が置かれるより前に栄えた王都です。1767年にアユタヤ王朝が滅びた後、タークシン王のトンブリー王朝を経て、1782年にラーマ1世が現在まで続くチャクリー王朝を開きました。ワットポーの前身は、この都の移り変わりよりも前からあった寺です。

古くは「ワットポーターラーム」と呼ばれていました。創建した人物や年を確定できる記録はありません。1788年は創建年ではなく、ラーマ1世による大修復が始まった年です。

その古い寺とのつながりを探せるのが、説法を聞いたり仏教を学んだりする建物、サーラー・カーンパリアン(説法堂)です。もとはワットポーターラームの本堂で、旧寺院の本尊だった座仏、プラ・プッタ・サーサダーが安置されています。

現在の建物にも後世の修復が加わっていますが、ここでは涅槃像が造られるより前の寺の姿をたどれます。

「ワットポー」という名前は昔の寺名から

「ワットポー」は、前身のワットポーターラームから残った呼び名です。タイ語の「ワット」は寺、「ポー」は菩提樹を表します。長い年月の間に正式な寺名は変わりましたが、短い呼び名は今も広く使われています。

ラーマ1世は、1801年の祝賀に際して「ワット・プラチェートゥポン」から始まる新しい寺名を与えました。

ワットポーの正式名称
ワット・プラチェートゥポン・ウィモンマンカラーラーム・ラーチャウォラマハーウィハーン。王室寺院の格式を示す語も含まれます。
1世の時代の寺名にあった「ウィモンマンカラワート」は、4世の時代に「ウィモンマンカラーラーム」へ改められました。

地図や案内で「Wat Pho」と「Wat Phra Chetuphon」という違う名前を見かけても、同じ寺を指しています。昔の寺名から続く呼び方と、王室から与えられた正式名称が、どちらも使われているわけです。

ラーマ1世の大修復と、王室ゆかりの寺院への歩み

ワットポー本堂に安置された金色の本尊と参拝する人々

ラーマ1世は、新しい王宮をチャオプラヤー川の東側に造りました。その南にあったのが、傷みの進んだワットポーターラームです。王宮のそばの古い寺は、この時代の大修復によって、王室と深く結び付く寺へと整えられました。

1788年に始まった大規模な修復

ラーマ1世が進めたのは、傷んだ箇所を直すだけの修理ではありません。本堂をはじめとする建物を整え、各地の仏像を迎え入れ、新しい王都の大寺院として造り直す大きな事業でした。1788年に始まり、修復を祝う式典は1801年に行われています。

その後、本堂はラーマ3世の時代に拡張されました。ラーマ1世が整えた寺に、ラーマ3世がさらに手を加えたため、現在の境内には両方の時代の仕事が残っています。

各地から集められた仏像が回廊に並ぶ理由

本堂を囲む回廊には、金色の仏像がずらりと並んでいます。内側に150体、外側に244体の計394体。これらは、ラーマ1世が北方各地から移した青銅の仏像です。

一見すると同じ仏像が規則正しく並んでいるようですが、よく見ると顔立ち、髪の表現、体つきなどが違います。スコータイ、チェンセーン、ロッブリー、ウートーン、アユタヤなど、異なる時代・土地の仏教美術が集まっているためです。

本堂に納められたラーマ1世の遺骨

ワットポーがラーマ1世ゆかりの寺とされる理由は、修復事業だけではありません。本堂の本尊、プラ・プッタ・テーワパティマコーンの台座には、ラーマ1世の遺骨の一部が納められています。納められたのは、後のラーマ4世の時代です。

本堂は、僧侶の重要な儀式を行う寺の中心のお堂です。大きな涅槃像があるお堂とは別の建物で、座った姿の本尊が祀られています。

王都が川の西側から東側へ移った時代には、対岸のワットアルンも深く関わっています。両方を訪れる人は、ワットアルンの歴史も読むと、川を挟んだ二つの寺の歩みをつなげて理解できます。

ラーマ3世の大改修と、大きな涅槃像の誕生

ワットポーの大きな涅槃像を側面から見上げた姿

ラーマ1世の大修復から数十年後、寺をさらに広げたのがラーマ3世です。大きな涅槃像を造り、中国風の装飾を取り入れ、学問や医学の知識を残す事業も進めました。現在のワットポーで目を引くものの多くは、この大改修に結び付いています。

境内を広げたラーマ3世の大改修

ラーマ3世は1824年から1851年まで在位した国王です。寺の北側や西側へ敷地を広げ、本堂を拡張するなど、長年にわたる改修を進めました。大きな涅槃像と、その像を納めるお堂も、このときに加わったものです。

寺の始まりはアユタヤ時代、涅槃像の造営は19世紀です。現在の象徴である大きな寝釈迦は、長く続いてきた寺に後から加わりました。

涅槃像を先に造り、その後にお堂を建てた

ワットポーの涅槃像は、1830年代、ラーマ3世の命で造営されました。横たわる釈迦をかたどった像で、日本では「寝釈迦」や「涅槃仏」とも呼ばれます。全長46m、高さ15mという大きさは、この寺を象徴するものになりました。

境内には、さまざまな姿の仏像がすでにありました。ラーマ3世は、まだなかった横たわる姿の仏像も加えようと考え、寝釈迦を造らせたと伝わります。

造られた順番は、仏像が先で、お堂が後です。煉瓦と漆喰で大きな体を造り、その像を覆うように建物が建てられました。像の表面は漆と金箔で仕上げられています。

中国風の装飾に残る交易の時代

ラーマ3世の時代は、中国との交易が盛んでした。王が好んだ中国風の美術は寺院の修復にも取り入れられ、ワットポーには中国風の石像や、焼き物を使った装飾が残っています。

門の近くなどに立つ、大きな帽子をかぶり、ひげをたくわえた石像もその一つです。武器を持つ武官風の像、本を持つ文官風の像など、持ち物や服装にも違いがあります。タイの鬼「ヤック」の像とは由来が異なり、中国の人物の姿をかたどっています。

中国から戻る船の重しとして運ばれ、寺院に置かれたという話もよく知られています。ただし、石像の来歴は一様ではありません。中国風の石像と焼き物の装飾は、交易が盛んだったこの時代の寺づくりを伝えています。

4基の大仏塔からたどる、ラーマ1世から4世の歴史

ワットポー境内に並ぶ歴代国王ゆかりの4基の大仏塔

色とりどりの焼き物で飾られた4基の大仏塔は、ラーマ1世から4世に関わるものです。高さはそれぞれ約42m。国王との関係は色で見分けられますが、建立した王や、塔を造った目的は一基ずつ異なります。

装飾の色関係する国王建立した国王・主な由来
緑ラーマ1世1世が造営。アユタヤから移した大仏を納める
白ラーマ2世3世が父である2世に捧げて造営
黄ラーマ3世3世が仏に捧げるため造営
濃青ラーマ4世4世がアユタヤの仏塔を手本に造営

緑の大仏塔に納められたアユタヤの大仏

緑色の装飾を持つ大仏塔は、ラーマ1世の時代に造られました。納められたのは、旧都アユタヤの王宮寺院にあった大きな立像、プラ・シーサンペットです。もとは高さ約16mもあった仏像で、損傷した残存部分が新しい王都へ移され、塔に納められたと伝わります。

塔の装飾だけを見ていると気付きにくい、旧都アユタヤとのつながりです。

回廊の仏像も各地から集められたものでした。建物は新しい都で造り直しながら、仏像や信仰は古い土地から受け継いだ。その動きが、回廊と緑の大仏塔の両方に見られます。

白・黄・濃青の大仏塔と、それぞれの国王

白と黄の2基を造ったのはラーマ3世

白い大仏塔は、ラーマ3世が父ラーマ2世に捧げて造りました。黄色い大仏塔も、3世が仏への供養のために造営した、3世ゆかりの塔です。白と黄の2基は、どちらもラーマ3世の事業でした。

濃青の大仏塔はアユタヤの塔が手本

濃青の大仏塔は、ラーマ4世が造営したものです。手本になったのは、アユタヤにあるシー・スリヨータイ王妃の仏塔でした。

4基はよく似た高さで並びますが、濃青の塔は、ほかの3基とは形も異なります。アユタヤの塔を手本にした違いが、輪郭にも表れています。

歴代王の大仏塔が4基で終わった理由

チャクリー王朝はラーマ4世の後も続いています。それなのに、ワットポーのこの一群は、なぜ4基で終わっているのでしょうか。

ラーマ5世は、父のラーマ4世から、王ごとに塔を増やし続ければいずれ場所がなくなる、という話を聞いたと記しています。4世は、最初の4人の王には互いに面識があったことから、その4人の塔を一緒に置き、その後は王が代わるたびに造る決まりにしないよう求めたといいます。

ワットポーが「タイ初の大学」と呼ばれる理由

ワットポーに残る人体図とタイ語の説明文

ラーマ3世は、境内を広げるのとあわせて、人々が知識を学べる場も造ろうとしました。壁や柱などに残る石の板には、仏教、医学、文学、教訓などが刻まれています。この取り組みから、ワットポーは「タイ初の大学」と呼ばれるようになりました。

専門家の知識を、誰でも読める石碑に刻んだ

ラーマ3世は、僧侶や医師、学者たちの知識を集め、石に刻んで境内に掲げさせました。写本などで伝えられていた知識は、必要な人がいつでも簡単に読めるものではありませんでした。寺の壁や柱を使い、人々が文章や絵を見ながら学べるようにしたのです。

ここでいう「大学」は、寺を訪れた人が多くの分野を学べたことを表す呼び方です。人々は健康を保つ方法から詩の作り方まで学べました。現代の大学のような学位制度があったという意味ではありません。

石碑といっても、地面に立つ大きな記念碑ばかりではありません。壁にはめ込まれた板や、柱・窓まわりなどに付けられた板も含まれます。石碑群は、25の建物や構造物に分かれて伝えられてきました。

壁にある石の板には、その建物の説明ではなく、薬の処方や詩の作法が書かれていることもあります。建物の壁や柱を、知識を伝える場所として使っていたのです。

医学だけではない、仏教・文学・暮らしの知識

ワットポーの石碑は、マッサージの教科書だけを集めたものではありません。仏教の物語、詩の作法、人としての心得、地方の町の名前など、当時の人々が伝えようとした多くの知識が残されています。

残された知識具体的な内容の例
仏教釈迦の弟子や仏教の物語、教えに関する文章
文学・教訓詩の作り方と作例、物語、人としての心得
伝統医学薬の処方、人体図、マッサージ、身体を動かす方法
当時の社会町や地方、役職、さまざまな人々に関する記録

影絵の絵柄まで石に残した

本堂外側の欄干には、タイの物語『ラーマキエン』を表した152面の石彫が並びます。『ラーマキエン』は、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』をもとにタイで発展した物語です。

面白いのは、その図柄が「ナン・ヤイ」という、大きな革の人形を使う古典影絵をもとにしていることです。多くの技芸を必要とする影絵が衰えていくことを案じ、ラーマ3世は、人形の絵柄を後世にも見られるよう石に写させたと伝わります。

文字で物語を伝えるとともに、舞台で使う絵柄も石に写して残しました。現在の石彫から、当時の影絵の図柄をたどれるのは、この保存の取り組みがあったからです。

ペルシャ由来の教訓話も伝えられている

経典を納める建物である仏典庫の周囲には、ペルシャに由来する、王の治め方を説く12の教訓話も石に刻まれました。正しく国を治めるための心得を物語にしたもので、現在もその一部を伝える石の板が残されています。

寺に集められた知識が、タイや仏教に関するものだけではなかったことも分かります。医学で有名な寺の中に、詩の作り方、影絵の図柄、遠い国に由来する物語まである。この幅広さに、ワットポーが学びの場と呼ばれる理由があります。

1,431点の石碑がユネスコ「世界の記憶」に登録

こうした石碑群のうち、1,431点が2011年にユネスコの「世界の記憶」に登録されました。登録されたのは、1831〜1841年に刻まれた、宗教や暮らしの幅広い知識を伝える記録です。

「世界の記憶」は、貴重な文書や記録を守り、伝えていくための取り組みです。ワットポーで登録されたのは、この石碑群という記録資料です。寺院全体が「世界遺産」に登録されたという意味ではありません。

ワットポーとタイ古式マッサージの歴史

ワットポーの庭に並ぶルーシーダットンの仙人像

ワットポーがタイ古式マッサージで知られるのは、伝統医学の知識を集め、記録し、人に教える役割を担ってきたためです。王室の命で集められた知識は、石碑や彫像に残され、やがて学校でも教えられるようになりました。

人体図と石碑に残された伝統医学の知識

身体に線や点が描かれた人体図は、ワットポーの医療の歴史を伝える代表的なものです。伝統医学で身体をどのように捉え、どこに働きかけると考えたのかを、図と文章で残しています。

記録された内容はマッサージだけでなく、薬の処方や出産に関わる知識などにも及びます。医師たちが受け継いできた知識を集め、残しておく事業だったことが分かります。

そのため、「タイ古式マッサージの発祥地」という短い呼び方だけでは、ワットポーの役割を十分に説明できません。以前から伝わっていた医療や技術を集め、教えられる形にして残したことが、この寺の大きな功績です。

体を伸ばす仙人像、ルーシーダットンが伝えるもの

腕を上げたり、体をひねったり、不思議な姿勢を取る仙人の像も、身体の知識を伝えるためのものでした。「ルーシー」は仙人、「ダットン」は自分の体を伸ばしたり整えたりすることを表します。

土の像から、金属の像へ

ラーマ1世の時代には土で造られ、その後、ラーマ3世の時代に金属製の像が造られました。保存しようとした姿勢は80種類。像の数は82体で、2つの姿勢は2人で体を伸ばす様子を表していました。立体の像なら、文章だけではつかみにくい手足や体の向きも示せます。

これらは、自分の体を動かすための姿勢を表しています。人に施術してもらうマッサージとあわせて、自分で身体を手入れする方法も伝えようとしたものでした。

仙人の名前と姿勢を、詩で説明した

像に添えられた詩には、仙人の名前と姿勢、その動きをどのような不調に用いると考えられていたかが記されました。ラーマ3世自身も詩作に加わっています。

像の立体的な姿と詩の説明を組み合わせ、体の動かし方を伝える教材にしていました。

受け継がれた知識が、現代の学校へ

現在のワットポー伝統医療・マッサージ学校につながる教育活動は、1950年代に組織化されました。1962年にはマッサージを教える課程も加わっています。石碑や像で知識を残すことに加え、講師から実際の技術を学ぶ場へと広がったのです。

ラーマ3世の石碑事業から、学校の成立までは100年以上。人体図や仙人像には、学校ができるよりも前から、寺で医学や体操を伝えていた歴史が残っています。

2つのユネスコ登録
2011年:ワットポーの石碑群が「世界の記憶」に登録。
2019年:タイ古式マッサージ「ヌアットタイ」が無形文化遺産に登録。こちらはワットポーだけを対象としたものではなく、タイに伝わる技術と知識への登録です。

ワットポーを歩くなら、涅槃像の大きさを楽しんだ後に、本堂、回廊の仏像、4基の大仏塔、壁の石碑へと目を向けてみてください。王が寺を整え、古い仏像を迎え、学問や医療の知識を人々へ伝えた歩みが、それぞれの場所に残っています。

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